<< 私の愛する男たち 画像アップ >>

カマキリとグラスホッパー

裏のポーチに続く台所のシェードを開けたら、
立派なカマキリさんが網戸に引っかかっていた。

これまた図鑑で見るような完璧な色、形をしていらっしゃる。
カマキリなんて東京ではあまり見かけなくなり
子どもの頃はちらほら見たような記憶もあるけど
どこにいっちゃったのかなーってな具合なので
思わず「おぉっ!」
そして夫に見て見て!とご報告。

朝からなにー?と面倒臭そうに2階から降りてきて
カマキリを見つけると
「あぁー、グラスホッパーね。昨日からそこにいるけど。」

まぁ何と感受性の鈍い反応・・・

って、ちょいまて!

グラスホッパーって、バッタじゃなかったっけか!?
いや、ちがう、コオロギ?
あれ?スズムシだっけ?

とにかく、この緑色のカマ持った虫は、グラスホッパーではない!!
だって、ホッパーって跳ねるってことでしょ?
カマキリ跳ねない。
カマキリ飛ぶ。

冷蔵庫からジュースを取り出し、既にカマキリなんか見ちゃいない夫に向かい
一生懸命異議申し立てをする。
これではカマキリの存在意義に対して申し訳がつかないというものである。

「これはグラスホッパーじゃない!これは、これは・・・
 (えっとカマキリって何ていうんだっけ。知らねーよ・・・)」
"what's that then?"
「これは・・・・KAMAKIRI・・・」
"OK"

そしてジュースを飲み干し、キッチンを出てゆく彼。
・・・完全にシカトされた・・・
この敗北感、カマキリに対する申し訳のなさ、どうしたらいいというのだ。

で、まぁぶっちゃけカマキリを英語で何というかなぞ大して興味がないので
放置していたけど、今パソコンの前に座ったついでに調べてみるとmantisという
カマもキリも全然関係ない情緒の欠片もない単語が出てきたわけですが。
カマキリ、何て描写感あふれる命名、さすが日本語、素晴らしい。

それは良いとして、夫を含めアメリカ人は一般的に自然のことについて
日本人に比べてかなり無頓着だと思う。

例えば、入道雲が出ているので
「わぁーいかにも夏ってかんじの雲だねー」とコメントすると
「は?どこが?」
これではきっともう少し涼しくなって鱗雲やちぎれ雲が出てきても
そこから季節感を感じ取り俳句の一つでも詠もうなどとは決して期待できない。

公園に行きトンボが飛んでいるので
子どもの頃止まったトンボの前で指を回転させながらコッソリ近づき
見事捕獲したエピソードなぞ話そうものなら
"you are such a nature girl"と東京のど真ん中で育ったはずの私が
なぜか自然愛好家のようになってしまう。

そして挙句の果てにコオロギもバッタもスズムシもカマキリも、
全て「グラスホッパー」に集約。

そういえば私の父はレタスも小松菜もチンゲン菜も全部「キャベツ」に集約させていたが
もしや男性的なものなのか?

まぁ、考えてみれば古代から男性は狩に出かけて獲物を取ってくることで
家族を養っていたわけで、その際コオロギだかバッタだか、レタスだかキャベツだか
鱗雲だか飛行機雲だか、そんなものは金輪際関係なかったわけで。
女性に比べればそういう小さなものに対するアンテナが低いのは生物学的にも
うなずけることなのかもしれないけれど。

でも、アメリカの場合はそれに加えてやっぱり開拓の歴史というか
国がここまで形成されてきた過程にも意味があるのかなと思う。

パンが食べられないヨーロッパ各国から命からがら移民してくるやら、
奴隷にされてアフリカから連れてこられたやら
まぁそれぞれのバックグラウンドを持ちつつ
アメリカという広い大地にほっぽり出された人たちは
芭蕉が情緒にあふれた一句を読む間に
土地を開拓して食べ物を探さなければならなかったというわけか。

日本の自然は深く美しいが、アメリカのそれも決して劣りをとらないと思う。
ダイナミックで大きな自然に囲まれた豊かな国土を持つ国だと思うが、
そこに住む人たちが日本人のようにあまり自然に敏感でないのは
国の歴史ゆえなのか。

そう考えると、自然を慈しみ、文化の中にさりげなく調和させた自然を取り込む日本は
やっぱり徳川幕府がもたらした400年の安泰の中にこそ見出すことができた
精神の余裕があるのかなーと思ってみたり。


朝晩初秋の風が吹き始めたニュージャージーでそんなことを思ってみて
秋刀魚が食べたくなりました・・・
[PR]
by akikogood | 2008-08-21 08:29 | 花鳥風月
<< 私の愛する男たち 画像アップ >>